冷静でいられるうちに言いたいこと

「日本に帰りたくない」と周りの交換留学生みんな口を揃えて言う中、私はとにかく日本に帰りたくて帰りたくて仕方ないしなんだか居心地が悪かった。

別にニューヨークが嫌いなわけでもないけれど、まだいろいろな固定観念に囚われていて中々抜け出せず、苦しいときがある。

 

「我慢はするな」というのが私の母の口癖で、お金で解決することならなんでもお金で解決しろ、という。

つい最近までお金は節約するべきだ、と思っていた私はその言葉がよく理解できなかったのだけど、アメリカに来てその言葉を噛み締めている。

 

住む家が気に入らないならお金を出して引っ越せばいい。多少の家賃の差と、居心地の良い部屋、どちらが大事か。冷静に天秤にかけてみたら答えは簡単に出るのに、つい目先の金銭的事情に目がくらんでしまった。(そのおかげでたくさん旅行できているけど。)

 

好きなだけ好きなことをすればいい。我慢する必要はない。

もちろん、そのためにはお金を稼がなければならないけれど。

だから、とにかく、働かねばならない。

 

最後に、今日あったよかったこと2つ。

1つめ。久しぶりに会った幼馴染と、無事、うまく一週間弱過ごせたこと。ほんとうに10年ぶりとかだったので、人見知り発揮して何も話すことなんてないんじゃないか、と結構心配だったのだけど、結構ブロードウェイのショーも好きらしく色々観れてよかった。

母親同士が仲が良いのは、価値観が似ているからだろうなあ、と思った。お金の使い方、考え方がとてもよく似ている。

 

2つめ。卒論のゼミ、無事第一希望のところに配属されたこと。日本にいる友達いわく、どうもみんな第一希望っぽいのだけど。笑 でも本当によかった。

たぶん厳しいところだけど、その分自分を追い込んで良いものが作れたら良いな。

おさぼり気味のプログラミングの勉強、また明日からコツコツ頑張ろう。ちょっと勉強しただけで普段利用しているサイトの仕組みが垣間見えて面白いし、本当に、今この機会を逃すわけにはいかないなあと思う。今が最後の追いつけるチャンス。多分。

格差社会

高校時代に通っていた塾の講師が「君たちはすばらしい能力を持っているのだから、その能力を社会に還元してほしい」と言っていた。

 

その講師は、受験で精神的に不安定になりがちな高校生に対し強大な影響力を持っている人で、その様を宗教とまで揶揄されていて、わたしはなんとなくうまい距離を取れないかと常に模索していたのだけれども、この言葉だけは「その通りだ」と100パーセント同意していて、ずっと自分の頭の片隅にあった。

格差社会は解決すべき問題で、親の収入、考え方によって人生が左右されるこの現状をどうにかしたいと思ってきた。

 

けれど、だ。

 

何が格差だよ?

 

一般的に、「格差社会」という言葉は、収入の差において用いられると思う。

学歴や政治的な影響力も、わりと収入の差に相関しているし、この世の中いくら愛があったって結局は金がなければ生きていけないことは紛れもない事実だ。

 

 

でも、だからといって、収入が多い人がヒエラルキーの上に立っているかというとそうではない。どちらが良いとか悪いとか、ないような気がする。

物理的には収入が少ない人と同じ生活をできるかもしれないけれど、でも、あまりにも育ってきた背景が違いすぎて、無理なんじゃないか。

逆もまたしかりで、収入の少ない人にお金を与えても、収入の多い人みたいな生活はできないと思うし、彼らはそれに憧れを抱かないと思う。

 

小学生、中学生のとき、わたしは勉強ができる層で、将来的にもたぶん格差社会の上の方に立つのだろうな、と思っていたけれど、でも、マイルドヤンキー予備軍たちはそのような私の持つ将来の可能性に対して、全くもって憧れている様子はなかった。

というか、ただ勉強ができるだけだった私は、学内ヒエラルキーでは明らかに一番下にいた。

 

住む世界が、あまりにも違いすぎる。

よくないこととは思うのだけど。

アメリカ嫌い

 私は最近よく「アメリカ嫌い」と言うのだけれど、それはドナルドトランプの過激発言パフォーマンスと同じようなもので、本当は別にアメリカのことは嫌いではなく、アメリカに来てもまだ苦しんでいる自分のこの現状が嫌なだけなのだ。いろいろな要素が「アメリカ嫌い」という言葉に集約されていくだけで。

 

日本にいたときは、とにかくアメリカに行って様々なことから解放されたい、と思っていたけれど、結局、アメリカに来ても日本での自分から抜け出すことはできず、苦しいままだ。

 

ああ、わたし、日本の学校の閉鎖的なあの感じがどうしても嫌だったのかもしれない。いじめ、というには軽すぎるかもしれないけれど、私は日本の学校で良い思いをした覚えがない。いつもスクールカーストの最下層だった。それを気に揉む性格がまた私を邪魔してきた。高校は、楽しかったのだけど。

 

就活のタイミングで自分の将来について考える今、どうしても日本で働く自分が想像できなくて、とても困っている。アメリカ嫌いなはずなのに、どうしたものか。

まあ、本当はわかっている。私は日本で働くべきじゃない。あんな閉鎖的な国で私は心地よく生きていけない。

アメリカならば平気でできることも、日本ではできない。

 

だけれど、圧倒的に、日本で生きて働く方が楽なのだ。努力しないでも、そこそこどうにかなるから。だって私には20年を過ごしたあの国の雰囲気が染み付いているから。

それに日本の演劇が好きだし、本が好きだし、音楽が好きだし、ご飯が好きだし、トイレだってお風呂だって日本の方が圧倒的に良い。家族や気の置けない友人もいる。

 

はぁぁー。せめて新卒3年は日本で頑張ろうと思っていたのだけれど。どうしたものか。

私がアメリカに染まり出しただけで、日本に帰れば帰ったでそんな違和感なにも感じずに生きていくことになるのだろうか。とりあえず今は日本企業にいくつか応募しようとしてはいるのだけれど。

 

 

自分とは違う世界に生きていると思っている人もまた人間だということを、今日、強烈に思った。ま、勝手に尊敬している人にツイッターで私のツイートをいくつかふぁぼられただけなのだけれど。

でも、その人のfacebookを見れば友達の友達だし、世界は案外狭い。私の世間が狭すぎるだけかもしれないけど。

 

インターネットのおかげで、私は簡単にすごい人をみつけられる。良い時代に生まれたと思う。インターネットのない、今よりももっと村社会の閉鎖的な社会に生まれていれば、絶対村八分にされて孤独感の中で死んでいったと思う。

 

 

スーパーチューズデイ。

ハーブ&ドロシー

『ハーブ&ドロシー』というドキュメンタリー映画と、その続編を観た。

 

なぜだか知らないけれどこの映画のことは知っていて、でも知ったそのときは観なかった。

ても、先日、なんだか、この映画に関する記事を読んだのか、なんなのかもう全く思い出せないのだけど、ふと、「とにかく観なければ」と思って、観た。

 

私は「大学で何を学んでいるの?」と言われるたびにとても困る。

なぜなら私が所属している学部は本当に様々なこと(国際関係論、少数民族の文化、芸術史、哲学、コンピュータサイエンス統計学、心理学、言語学などなど、把握しきれてない)を取り扱っているからだ。

経済学部ならエコノミクス、工学部ならテクノロジー、と答えることができるけれど、私にはできない。インターカルチュアル・スタディーズって言ったって、「それは何?」と聞き返されるのがオチだ。実際、そこに所属して丸3年の私もよくわかっていない。

だから、いつも「コンピュータ・サイエンスとアートマネジメントを少し」と答える。ただ、どちらもとても中途半端なことを自覚していて、メジャー(専攻)というには足りない気がして、いつも恥ずかしくなる。

 

学部の中での所属コースはITコミュニケーションといってコンピュータ・サイエンスやら統計学をやるコースで、卒業論文の指導教官はそのコースの先生の予定だけど、どちらかというと今まではアートマネジメントの勉強や実践に時間をかけてきた。

 

アートマネジメントというものは全く新しい概念で、言葉の意味のままでいくと「アートをマネジメントする、その方法を学ぶ」ということなのだけど、要は「芸術の素晴らしさを前提とし、その素晴らしさを世の中に広めていく方法を学び、実践していくこと」だと個人的には考えている。アートには人を結びつける作用がある、と、この分野に従事している人たちはみなそう信じていて、それを是としているように思う。

 

「ハーブ&ドロシー」は、まさに、その人と人を結びつけるアートの力をまざまざと見せつけてくるような映画だった。ハーブとドロシーというニューヨーク在住のアートコレクター夫婦のドキュメンタリーなのだけど、彼らのアートへの関わり方は誰でもできるのに、誰もできない。

ドロシーの図書館司書の給与で暮らし、ハーブの郵便局員の給与でアートを買い集める。作品を買う基準は、自分たちの手にはいる値段で、自分たちの小さなアパートに入る大きさのものであること。たったこれだけ。私にも、あなたにも、できること。

 

なのに、私たちはそうしない。

私たちは大きな家がほしいし、おいしいものを食べたいし、旅行だってしたい。他への欲求とアートへの関心を天秤にかけ、他への欲求を優先させる。

 

「彼らのアートへの情熱はアーティストのそれと全く変わらない」と映画の中でアーティストが言っていたけれど、全くその通りで、アートへの情熱が彼らとアーティストを結びつけていたのだと思う。アーティストと対話して、作品を深く理解して、そして購入するという彼らの態度が、誠実で、アートそのものだとも感じた。

 

彼らのアートへの希求心は、本当に純粋だ。

芸術というとどうしても純粋性を求めたがるが、一方で、我々はどうしてもその作品の値段など、様々な周辺事項に目がいきがちで、純粋とは程遠くなってしまう。けれど、彼らは作品一つ一つを真に受け止めようとしていて、その姿勢は純粋としか言い表せないように思えた。

 

しかし、そもそも、純粋とは何か。私は舞台や芸術作品を鑑賞することが好きだけれど、観ているときに、その芸術作品の意義や作者の意図を読み取ろうとは思っていない。だいたい、別のことを考えている。

たとえ凛として時雨のライブで轟音を浴びて周りにもみくちゃにされていても、考えているのは点数の悪かったテストのことだったり、あの子やこの子のことだったり、横から伸びてくる腕のことだった。それはそのときを十分に楽しめていない証拠なのではないか、と昔はずいぶん悩んだけれど、それでも気がついたら次のライブの予定を立てていた。

大学生になって、ようやく、別にそういうものに正解はなくて、型にはめる必要はないんだと思うことができるようになった。純粋かそうでないか、ということは別にどうでも良いと思えるようになった。

だって横尾忠則の絵を見たって私は彼が何を考えその作品を制作したのか、わからないもの。私は横尾忠則ではなくて私だから。彼と全く同じ人生を歩まない限り、私は彼の作品を理解することはできない、という圧倒的な事実が私の中の芸術鑑賞へのハードルを低くしてくれた。

 

ハーブとドロシーがそのことについてどのように考えていたかはわからない。「そんなことを考えたこともなかった」というような気がするけれど。

それくらい、彼らは常に作品と、その作者へ誠実に向き合っていた。だからこそ多くのアーティストから愛されたのだと思う。

 

 

この純粋性について考えて思い出すのがロッキングオン山崎洋一郎氏のブログのこの記事

中学生の頃は必死になって、アーティストとJAPANのインタビュアーたちのやりとりを読み、その意味を読み解こうとしていたけれど、なんだかそういうことに疲れてしまって、もう何年も音楽雑誌を読んでいない。そもそも音楽への執着心もここ何年かで相当に消え失せてしまった。ただ、バンプ20周年のタイミングで、なぜか氏のブログにたどり着いた。

 

曰く、

どちらかというと僕はプリプロやアレンジやレコーディングのこまごました一部始終の話をきくよりも、
「この曲に込められた意味は?」とか、
「どんなことがきっかけになってどんな気持ちでこの曲を書いたの?」とか、
「この歌詞の意味は?」とか、そんなことをとにかくずばっと訊きたくて、
 藤原やメンバーの困った顔も意に介さず、ひたすら自分の訊きたい質問をメンバーに浴びせて、その「答え」を求めるインタヴューをその頃は繰り返していたと思う。

 でも最近では、藤原やメンバーが一生懸命に楽しそうに話す、こまごましたレコーディングの経緯や出来事の、そのまさにこまごましたやり取りの中にこそ、その曲やアルバムの本当の「答え」があるんだということが僕にはわかってきた。

 

なぜかはよくわからないけれど、このブログはすごく深い意味を持っている気がした。

その作品に込められた意図はたぶん作者にしか理解できないものだけれど、私たちはその作者の話を聞くことで、少し、その意図に近づけるのかもしれない。

 

私たちはそのことを経験により知るけれど、ハーブとドロシー(特に、ハーブ)は生まれたときからそのことを知っていたのだと思う。アーティストたちが「彼らは生まれつき審美眼がある」と言う、その「審美眼」はこのことなのかもしれないなあ、とぼんやりと思った。

 

この映画は1作目が彼らのコレクションの過程にまつわるもので、2作目はそのコレクションが全米の美術館に渡っていく過程にまつわるものだ。面白かったから、ぜひ、いろんな人に見てもらいたい。私のブログなんて何の影響力もないけれど、まあ、この記事を見た人が心のどこかにこの映画のことを覚えていてくれたら良いなあ。

 今の時代は本当に便利で、iTunesやGooglePlayでいつでもどこでも映画をレンタルできる。もちろんTSUTAYAの100円レンタルほど安くはないけれど、海外暮らしにはとてもありがたい。ちなみに私はiTunesで借りました。(iTunesは日本版を使っているので簡単に借りれます。GooglePlayは多分アメリカ版なので借りれなかった。ただ作品がGooglePlayでは利用できないだけかもしれないけれど。)

 

ちなみに私が一番印象に残ったのは、ドロシーが生まれ故郷のエルマイラという小さな町について語ったときの言葉。うろ覚えなのでニュアンスだけだけれども。

 

私はここに生まれ、育ったわ。終の住処にしても良いくらい。けれど、その間が退屈。

 

今自分が彼らが住んだ(ハーブは残念ながら亡くなったけれど、ドロシーは存命で、おそらく今も住んでいる)ニューヨークにいること。なんだか、もっと、大切にしていきたいなと思ったのでした。

 

ハーブ&ドロシー [DVD]

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宗教とコミュニティ

ハーレムにゴスペルを聴きに行ってきた。

 

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まあ、ニューヨークにいるうちに1回くらい行こうと思っていたので行けて良かった。

実は3週間くらい前、目星をつけていた教会に行ってみたら、なぜか「10ドル払え」と言われ、それはちょっとなぁということで引き返してきたので、二度目の正直と相成りました。

 

ゴスペルはそれはそれは良かった。感動した。

言葉にするとなんとも安易な感じになるけれど、亡くなった祖母(クリスチャン)のことを思い出したりして、まあ、結構、泣きそうになった。隣の白人(観光客)は実際泣いていた。

 

私は祖母の葬式で教会にどれだけ寄付を行ってきたかとか、そういうことを少し垣間見てしまい、どうも宗教というものに対して良い印象がないというか、一定の距離を取りたいと思っているのだけど、いろんな教会に行くうちに、うっかりキリスト教に入信してしまいそうで怖い。

 

宗教というのはもはや宗教ではなくコミュニティなのかなあと思う。

 

それはたとえばS価にも言えることだけど。中学時代の友人はおうちがS価で、高校、大学とその方面に進み、そのコミュニティで楽しくしている様子。大学1年のときに1回家に泊めてもらって以来、全然連絡取ってない(というか私がラインのアカウント消したせいで連絡先消えた)けど。

この前学校でたまたま会ったT理の人もなんだか妙に自分を押し付けてきて、私が頼んでもいないのに勝手に上から目線でfacebookにコメントしてきたりしたけど、それはやっぱり宗教のコミュニティに属している、自分を受け入れてくれるところがあるからという自負からくるものなのかもしれない。知らんけど。

 

まあ、そりゃ少なからず金払ってるんだから受け入れてくれないと困るよなあ。じゃないと宗教の意味ないじゃん。

 

わたしはそのコミュニティにあまり金銭的価値を見出せないので、やっぱり今は宗教とは距離を置いておきたいなと思う。ま、そう考えたらオタクの集まりだって世界一周旅行者のコミュニティだって全部宗教みたいなもんだ。宗教は歴史あるコミュニティって感じかな。私だって大学というコミュニティに少なからぬお金払ってるし(実際支払ってるのは親だけど。)

 

 

ところでハーレムの目抜き通りはMalcolm X Blvd.というのだけど、どんな人物か今更ながら調べてみると、黒人解放運動のリーダーでイスラム教徒とのこと(父親はキリスト教バプティスト系の牧師だったので幼少期はキリスト教徒だった?)。

ハーレムは少し歩いてみた感じ、キリスト教会がめちゃくちゃ多いので、「マジか目抜き通りにムスリムの名前使っちゃうかー」という感じがした。でもマルコムXはニューヨークで亡くなったし、宗教云々より黒人としてのアイデンティティに重きを置いていたような感じがするし、別にそういうのは関係ないのかな。ハーレムの住民がみんなキリスト教とは限らないし。

今日行った教会の信者さんの住所のリストにはBronx(ハーレムの北隣の地区)の人が多かったし、案外地元の住民が地元の教会に行くというわけでもなさそう。

 

ちなみにそのマルコムXが銃に撃たれて死んだとき、その身体を受け止めたのがYuri Kochiyamaという日系アメリカ人だったというから驚き。この方は日系人の旦那さんと一緒にハーレムに住んでいたそう。一応日本語のウィキペディアもあったけど全然情報載ってなくて、その分英語のウィキペディアに色々載っていた。

私が見たのはこのページだけど。

 

日本人の血を引いてるってだけで別に彼女のアイデンティティはアメリカ人だろうに、どうしてこう日系人を贔屓してしまうのかな。これは日本人特有……ではない気がする。街に出ると、たいがいの人が同一民族で固まっている様子が見える。ニューヨークは、特に、そう。

don't think, just do it

最近おおきな影響を受けたこちらの本。

 

魔法の世紀

魔法の世紀

 

 

の、作者の、筑波大の先生の、このツイート。

 

 

が、すごいビビビッときたので、メモ。

 

インターネットについて、未だに捉えきれない部分は多々あるけれど、確かにこの三次元では表現しきれないものが、私を救ってきた。でも私は「家族・コミュニティ・愛」という価値観に縛られてきているので、どうしてもインターネットをそこまで強大な、世界を変えうるものとして認められなかった。けれど、インターネットはパラダイムを大きく変えていくものなのだと、確かに信じてもいいのかもしれない。

 

「毒親」について悩んでいる人を見て、「なんでそんなに親に不満持つんだろう」と思っていたけれど、親に不満がない私みたいな人間こそが一番の毒親持ちなのかもしれない。私は母親の影響を受けすぎている。私の母親は、またその母親の祖母の影響を多大に受けている。

 

私に必要だったのは親の愛ではなく自由だった。

「自分の好きなように振る舞う」こと、その自由には責任が伴うけれど、でも、それが今私に一番必要なものだ。親にずっとしがみついていると「家族・コミュニティ・愛」の価値観から離れられない。

どうしても目先の事情(要はお金)に目がくらんで実家暮らしで安寧、なんてことを考えていたけれど、卒業したらたとえ大阪で働くにしても実家を出ないと。

 

 

そうだよ私は友達が全然いない自分に劣等感を感じてきたんだ。幼馴染にお昼ご飯一緒に食べることやんわりと拒否されたときから、私は、ずっと、選ばれない自分に劣等感を感じ続けてきたんだ。

私がカナダを好きな理由は、私はそこに一人で飛び込んでいって、同じような境遇の人がたくさんいて、そうして楽しく過ごせたから。

私がアメリカを嫌いな理由は、日本の大学での人間関係をこじらせているから。私は自由になれなかった。

 

だから、だから、離れないといけない。動き続けないといけない。

KYOYO NAI

今学期はComputer Scienceの授業を1つ取っている。

朝9:15からで先生の声は眠いし授業内容はそんなに面白くないし(知ってることばかり)、で毎回毎回寝落ちしていて、この前ついに先生に"Are you tired?"と聞かれてしまったんですが、そんなことはさておき。

 

その授業の中で10進数、2進数、16進数を扱っていて、今度それに関する小テストをやるようなので、慌てて勉強し始めたところで、ふと、「世界のどの文明も10進数扱ってるってすごくないか?なんで?」という疑問にぶつかった。私の浅はかな世界史の知識では、文明は世界各地でばらばらに発達し、お互いに影響しあってはいない……はずなのに。

ではなぜみんな10進数を使うのか?ということをちょっと調べてみた。

 

仮説。

  • 文明が発達する以前、アフリカの大地溝帯の一人の女性から人類が始まる以前から人類の祖先は明確に10進数の概念を持っていた
  • 人類に共通するどこかのDNAの部分が10進数の概念を共有している
  • ローマ帝国とかなんとか、そこらへんの帝国が10進数を押し付けていった
  • 実は文明は互いに影響しあっており、「10進数便利!」ということが次第に広まっていった

 

で、まず調べて驚いたのが「10進数以外の概念を持っている文明が存在した」こと。

いや当たり前なんだけど。そもそも、よく考えなくても、時間の概念は未だに60進数だし。というか、英語だって1〜12まではそれぞれの呼び方があって、13〜19はteenをつけ、20以降は10進数。他の言語は知らんけど、10進数を使うのは日本語くらいなのかもしれない。

 

とりあえずシュメール人は60進数、マヤ人は20進数を使っていたらしい。

 

……ここまで書いて力尽きました。それ以降はまだ調べていません。

まず私はシュメール人が誰なのかを知らないので、それを調べないと自分が納得できない。シュメール人って名前は聞いたことあるんだけど。中東のあたり?

あとマヤ文明はメキシコであってるのかな。ははは。中南米ってことは知ってるんだけど。

 

いやほんと、自分の教養のなさってこういうところで響いてくる……。

なのに無駄に理屈を知りたがるなので、すぐ勉強に詰まる。そこは無視して勉強したほうがてっとり早いのはわかっているのだけど、どうしても納得いかない。

(だからPHPやProcessingの授業を受けているときも「なぜこうなるのか?」ということを先生やTAに聞きまくっていた。迷惑な生徒である。)

 

というわけで、このブログエントリはいつか書き足します。まずは世界史の流れをざっと説明している、わかりやすい本を読むところから始めないと納得いかない。ブックオフに売ってるかなー……。