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ハーブ&ドロシー

『ハーブ&ドロシー』というドキュメンタリー映画と、その続編を観た。

 

なぜだか知らないけれどこの映画のことは知っていて、でも知ったそのときは観なかった。

ても、先日、なんだか、この映画に関する記事を読んだのか、なんなのかもう全く思い出せないのだけど、ふと、「とにかく観なければ」と思って、観た。

 

私は「大学で何を学んでいるの?」と言われるたびにとても困る。

なぜなら私が所属している学部は本当に様々なこと(国際関係論、少数民族の文化、芸術史、哲学、コンピュータサイエンス統計学、心理学、言語学などなど、把握しきれてない)を取り扱っているからだ。

経済学部ならエコノミクス、工学部ならテクノロジー、と答えることができるけれど、私にはできない。インターカルチュアル・スタディーズって言ったって、「それは何?」と聞き返されるのがオチだ。実際、そこに所属して丸3年の私もよくわかっていない。

だから、いつも「コンピュータ・サイエンスとアートマネジメントを少し」と答える。ただ、どちらもとても中途半端なことを自覚していて、メジャー(専攻)というには足りない気がして、いつも恥ずかしくなる。

 

学部の中での所属コースはITコミュニケーションといってコンピュータ・サイエンスやら統計学をやるコースで、卒業論文の指導教官はそのコースの先生の予定だけど、どちらかというと今まではアートマネジメントの勉強や実践に時間をかけてきた。

 

アートマネジメントというものは全く新しい概念で、言葉の意味のままでいくと「アートをマネジメントする、その方法を学ぶ」ということなのだけど、要は「芸術の素晴らしさを前提とし、その素晴らしさを世の中に広めていく方法を学び、実践していくこと」だと個人的には考えている。アートには人を結びつける作用がある、と、この分野に従事している人たちはみなそう信じていて、それを是としているように思う。

 

「ハーブ&ドロシー」は、まさに、その人と人を結びつけるアートの力をまざまざと見せつけてくるような映画だった。ハーブとドロシーというニューヨーク在住のアートコレクター夫婦のドキュメンタリーなのだけど、彼らのアートへの関わり方は誰でもできるのに、誰もできない。

ドロシーの図書館司書の給与で暮らし、ハーブの郵便局員の給与でアートを買い集める。作品を買う基準は、自分たちの手にはいる値段で、自分たちの小さなアパートに入る大きさのものであること。たったこれだけ。私にも、あなたにも、できること。

 

なのに、私たちはそうしない。

私たちは大きな家がほしいし、おいしいものを食べたいし、旅行だってしたい。他への欲求とアートへの関心を天秤にかけ、他への欲求を優先させる。

 

「彼らのアートへの情熱はアーティストのそれと全く変わらない」と映画の中でアーティストが言っていたけれど、全くその通りで、アートへの情熱が彼らとアーティストを結びつけていたのだと思う。アーティストと対話して、作品を深く理解して、そして購入するという彼らの態度が、誠実で、アートそのものだとも感じた。

 

彼らのアートへの希求心は、本当に純粋だ。

芸術というとどうしても純粋性を求めたがるが、一方で、我々はどうしてもその作品の値段など、様々な周辺事項に目がいきがちで、純粋とは程遠くなってしまう。けれど、彼らは作品一つ一つを真に受け止めようとしていて、その姿勢は純粋としか言い表せないように思えた。

 

しかし、そもそも、純粋とは何か。私は舞台や芸術作品を鑑賞することが好きだけれど、観ているときに、その芸術作品の意義や作者の意図を読み取ろうとは思っていない。だいたい、別のことを考えている。

たとえ凛として時雨のライブで轟音を浴びて周りにもみくちゃにされていても、考えているのは点数の悪かったテストのことだったり、あの子やこの子のことだったり、横から伸びてくる腕のことだった。それはそのときを十分に楽しめていない証拠なのではないか、と昔はずいぶん悩んだけれど、それでも気がついたら次のライブの予定を立てていた。

大学生になって、ようやく、別にそういうものに正解はなくて、型にはめる必要はないんだと思うことができるようになった。純粋かそうでないか、ということは別にどうでも良いと思えるようになった。

だって横尾忠則の絵を見たって私は彼が何を考えその作品を制作したのか、わからないもの。私は横尾忠則ではなくて私だから。彼と全く同じ人生を歩まない限り、私は彼の作品を理解することはできない、という圧倒的な事実が私の中の芸術鑑賞へのハードルを低くしてくれた。

 

ハーブとドロシーがそのことについてどのように考えていたかはわからない。「そんなことを考えたこともなかった」というような気がするけれど。

それくらい、彼らは常に作品と、その作者へ誠実に向き合っていた。だからこそ多くのアーティストから愛されたのだと思う。

 

 

この純粋性について考えて思い出すのがロッキングオン山崎洋一郎氏のブログのこの記事

中学生の頃は必死になって、アーティストとJAPANのインタビュアーたちのやりとりを読み、その意味を読み解こうとしていたけれど、なんだかそういうことに疲れてしまって、もう何年も音楽雑誌を読んでいない。そもそも音楽への執着心もここ何年かで相当に消え失せてしまった。ただ、バンプ20周年のタイミングで、なぜか氏のブログにたどり着いた。

 

曰く、

どちらかというと僕はプリプロやアレンジやレコーディングのこまごました一部始終の話をきくよりも、
「この曲に込められた意味は?」とか、
「どんなことがきっかけになってどんな気持ちでこの曲を書いたの?」とか、
「この歌詞の意味は?」とか、そんなことをとにかくずばっと訊きたくて、
 藤原やメンバーの困った顔も意に介さず、ひたすら自分の訊きたい質問をメンバーに浴びせて、その「答え」を求めるインタヴューをその頃は繰り返していたと思う。

 でも最近では、藤原やメンバーが一生懸命に楽しそうに話す、こまごましたレコーディングの経緯や出来事の、そのまさにこまごましたやり取りの中にこそ、その曲やアルバムの本当の「答え」があるんだということが僕にはわかってきた。

 

なぜかはよくわからないけれど、このブログはすごく深い意味を持っている気がした。

その作品に込められた意図はたぶん作者にしか理解できないものだけれど、私たちはその作者の話を聞くことで、少し、その意図に近づけるのかもしれない。

 

私たちはそのことを経験により知るけれど、ハーブとドロシー(特に、ハーブ)は生まれたときからそのことを知っていたのだと思う。アーティストたちが「彼らは生まれつき審美眼がある」と言う、その「審美眼」はこのことなのかもしれないなあ、とぼんやりと思った。

 

この映画は1作目が彼らのコレクションの過程にまつわるもので、2作目はそのコレクションが全米の美術館に渡っていく過程にまつわるものだ。面白かったから、ぜひ、いろんな人に見てもらいたい。私のブログなんて何の影響力もないけれど、まあ、この記事を見た人が心のどこかにこの映画のことを覚えていてくれたら良いなあ。

 今の時代は本当に便利で、iTunesやGooglePlayでいつでもどこでも映画をレンタルできる。もちろんTSUTAYAの100円レンタルほど安くはないけれど、海外暮らしにはとてもありがたい。ちなみに私はiTunesで借りました。(iTunesは日本版を使っているので簡単に借りれます。GooglePlayは多分アメリカ版なので借りれなかった。ただ作品がGooglePlayでは利用できないだけかもしれないけれど。)

 

ちなみに私が一番印象に残ったのは、ドロシーが生まれ故郷のエルマイラという小さな町について語ったときの言葉。うろ覚えなのでニュアンスだけだけれども。

 

私はここに生まれ、育ったわ。終の住処にしても良いくらい。けれど、その間が退屈。

 

今自分が彼らが住んだ(ハーブは残念ながら亡くなったけれど、ドロシーは存命で、おそらく今も住んでいる)ニューヨークにいること。なんだか、もっと、大切にしていきたいなと思ったのでした。

 

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