誰のものでもない この私は

エリザベートというミュージカルが好きです。

言わずもがな日本ミュージカル界の大人気作品、チケット必死にもぎ取って、去年は東京まで花總まりさんのエリザベートを見に行きましたし、今年は宝塚宙組のものを生で2回とライブビューイングで1回見ました(梅芸での花總まりさんの方もチケットは持っていましたがドイツ行きと被り泣く泣く母に譲った……涙)。

 

この作品がなぜ好きなのかというと、もちろん入り口は(花總まりさんの)シシィ(エリザベート)の圧倒的美しさと、作品で使われている楽曲の美しさだったわけですが、だんだんと、シシィが窮屈な宮殿からの自由を求める姿に惹かれていったのです。

 

シシィは社会的に期待されている役割、つまりオーストリア=ハンガリー帝国の皇后という役割からの自由を求めていた。女性だからより自由が制限されていたと言われていますが、一方で、この時代、きっと、男女問わず、誰もが社会的に期待されている役割を全うすることしか知らなかったのだと思います。誰も外の世界を知る術を持っていなかった。

でも、シシィは知っていた。だからこそ、狭い宮殿の中だけで生きていくことが窮屈で、彼女は必死に違う道を探して、最後は死んだ。

 

それって今の時代にも通じることで、誰もがみな、実は、見ている世界はとても狭い。シシィみたいな人は、少ない。

たとえば私の周りには大学に行ってない人はほとんどいませんが、実は日本の人の半分は大学に行っていないんですよね。別にそれは悪いことではなくて、人間、大学なんかに行かなくたって生きていけます。専門学校に行ったり、誰か職人さんのもとで修行したり、道はたくさんある。でも、私は、大学に行く道しか知らなかった。そりゃ知識として専門学校やら職人制度やら知ってはいたものの、実際、大学に行くもんだと言われて育てられてきたし、周りもそういう考えの人ばかりで、他の道を現実のものとして捉えることはできなかった。

結局、私の生きているコミュニティのバイアスをそのまま受け取って生きてきたということです。

 

私は地元が嫌いなのですが、それって、小・中学校時代、マジョリティだった人たちと生きている世界が違ったからだろうなと思います。彼ら彼女らの今なんてほとんど知りませんが、大学に行っている人は少数で、働き始めている人も多いし、もう結婚して子供がいる人だっています。

同調圧力に抵抗する術も知らず、ただ、じっと、耐えていた、あの頃。出る杭は叩かれるから、息を潜めて、いつも自分が死ぬのとその場にいる人みんなを殺すこと、どっちが簡単かを考えていた、あの頃。

その頃に比べて、私はずいぶん呼吸がしやすくなりました。自分と似通った社会ステータスを持ち、似通った考えを持った人たちとしか交流を持つのは、ぬるま湯に浸かるように、とても、居心地がいいものです。

 

しかし、ふと、「これでいいのか?」という気持ちを抱くようになりました。私は結局、自分にとって都合のいい事実ばかりを切り取り、それ以外を、全て、無視してしまっている。

地元の子に会ってみたい、話してみたい。

と、成人式にも行かなかったのに、電車で「もしかしてあの子、同級生?」と思っても見えないふりをしていたのに(まぁ、当然、向こうは私のことなんて一ミリも覚えていないのだけれども)。同級生に会いたい、会わなければならない、と思うようになったのです。

 

でも、連絡先知らない。かろうじてFacebookで数名と繋がってるけど……連絡するのはちょっと……。

そう思っていたところ、先日、中学時代仲良かった子に最寄駅で話しかけられるという事件が。磁石みたいな不思議な力を持っている子で、その子と駅で話していると、さらに小学校時代仲良かった同級生が引っかかる。駅でたまに見かけるけど、Facebookでたまに「知り合いかも?」に出てくるけど、たぶん、私一人だったら絶対に二度と話すことはなかっただろうな。

きっとこれは神様が私に与えてくれた、ひとつの変わるきっかけなのだと思います。

ラインを交換して、今度ご飯に行こうという口約束。たぶん、私からラインしない限り、ご飯なんて実現しない。から、ちゃんと、ラインしようと思います。ぶじ卒論も終わったし。